昭和41年04月26日 朝の御理解



 一両日前からここにこんな、誰がこりゃあ便箋にこう書いた物を誰かが持ってきておる。なんだろうかと思うてちょっと見てみてみた所が、「創価学会とはどんなものか」と。「ザ、宗教を(?)」と言った様な事が書いてあって、もう所謂この創価学会がいわば食わせ物だと、もうこれこそ「ザ宗教」だと言う様な事柄をまあ理路整然と、まあいわば叩いておる事が書いてあるのです。
 成程創価学会はあの他宗教、を邪宗教だとして(?)する。もう本当に例えば金光教の信心なんかも創価学会に言わせたらもうぼろくそですよね。だからというて、私は創価学会を罵倒するとかそれに、言い返したいと言った様な気持は私共の心の中には、さらさらない。あれはあれなりにです、ね、そのまあ良い所は良い所として聞いたり頂いたりしなければならんのですけれども、あちらがあちらだからこちらもいうて返さなければと言う様な事はお道の信心振りに張りませんですね。
 人の口には戸は立てられん。ね。確かに人の口には立てられません。根も無い葉も無いことをとやこうと言い立てる、ね、けれどもです教祖の神様はそういうような場合でも、例えばその泥棒といわれてもです、乞食だといわれてもです、腹を立ててはならんと仰る。ね。泥棒じゃと言われても人の物をとらなければ泥棒じゃあない。乞食だと言われても、物乞いをして歩かなければ乞食じゃあない。
 しかも神が顔を洗うてやると仰るのですから、根も葉もない事であればあるほどに、それが例えばなんと罵倒されようが、こちらはそれに対して言い返そうとする様な事があってはならん。先日私はお道の本を見せて頂きよりましたら、新聞でしたしょうか、あのある教会の先代の頃です、もう大変難儀苦労して道を開かれた先生の事が書いてあったんですけれども、もうあんまり人がドンドン参ってくるもんですから、お坊さん達がうって一丸になってから、金光退治と言った様なその、まあ講演会を町で開いたと。
 それに対して今度はなら、神道のほうで、金光教の先生が先頭に立ってから、今度はなんか仏教退治かね坊主退治かと言った様なその、講演会を三日間もその会堂を借り切ってやったと。まあ所謂その、まあ論争ですよね。口で戦うわけなんです。それで非常にそのまあ評判がよかったという話を四神様に申し上げると、四神様は大変ご機嫌が悪かったそうですね。いらん事を言うたというてその、慎まれたそうです。あのご機嫌が悪かったと言った様な話が金光新聞かなんかに載ってましたです。
 ですからお道の信心はもうどこまでもですね、ああ言うたからこういわんならん、こう言いかえそうと言う様な心の間は私はお道の信心は本当に頂いておるとはいえないと思うですね。それが根も葉も無い事であればあるほどにです、ね、神様の働きとして頂かなきゃあいけんと思うです。それは本当に心外の事を聞く事がある。いうなら根も葉もないことを聞く事がある。けれどもそういうようなものをですね。
 こちらに根も葉も無いからというて、まあ思えば何にも無いのですけれども、ここに一つ思うてみなければならん事があるですね。例えば先日もここで、椛目のご造営の事についてから、もうそれこそ様々なデマがやっぱり飛んでる。聞けば聞くほど根も無からなきゃ葉もないような事。けれどもそれをよーく一つまあここに私は言い寄らんに致しましてもです、ここにやっぱりこれだけ沢山な信者がおるのでございますからその中の一人が本当に言うたかもしれん。ね。
 いわゆる、案外な所にこちらにそう言う様な、根があるかもしれん。お互いが慎まなければなりません。口は災いの元と申します。けれどもお道の信心は話を聞いて助かる道と仰るのでございますから話を聞くと言う事が助かる道であるならば、また話をして助かる道でもあるわけなんです。だから自分がおかげを受けた事を実意を持って人に伝えていくと言う事は神様のお礼にもなるのでございますから。
 これは口を通さなければなりません。けれどもです例えば、自分を誇張するとか、自分を宣伝する為に人を叩く為に悪口を言う為にこの口を使う様な事があってはなりません。芭蕉の句にあります。「物言えば唇寂し秋の風」と言うた後に後味の悪いような事はです金輪際お互い言うちゃなりません。先日も私はもう本当に心外な、私がそう言う事を、言う筈がないじゃないですかと言うてまあ、一蹴したんですけれども。よくよく聞いてみたところが、いや、誰々さんがやっぱいいなさったと、言う事になっとると。
 もう本当に人もあちらにまた椛目で信心を頂いておるものがです、しかもこういう人に、こういう話をもっていくと言う様なことは、とんでもない事なんだと、思うのですけれども、ね、だからその人にその事を言うたわけでもない。けれどもです、ね、軽はずみなことがです、大変ないわば結果に成る様な事がある。いわゆる災いの元になる事がある。または人の顔に泥を塗る様な事があると。ねですから例えば聞いてもそう言う事が言うてはならない事なら、ここに収めとかなん。ね。
 もしそれが根も葉もない事ならないほどです、ね、それに対してどうこうと言う様な事があってはならん。教祖が御理解下さる様に、ね。例えば神の事をとやこういうものがある、しかしそう言う事でも神のひれいとさえ仰っておられる。椛目の事をとやこう人が言う様な事があってもです、それは矢張り椛目の神様のごひれいなんだ。勢いなんだ。お礼を申し上げる事と同時にです、ならそう言う様なことが果たしてなら、根も葉も無い事とこう思うとるけれども矢張り根がこちらにあるような場合もあると言う事。
 ははぁそげんな事を言うとるけんそげな風に曲解されとる誤解されとる。と言った様な事もないではないのですから、矢張りお互いがつつしまなければならん。声を持って通して言う事、口を持って言う事はどこまでも話を聞いて助かるであるから、話をしてまた相手が助かる様な事だけしかいうちゃならん。まして椛目の事に限っては。またお互いが椛目のことを本当にいうならばです、腹の立つような事を聞いてもです、赤面弁慶になって言い訳することも何もいらん。
 神様のひれいとしてから、お礼を申し上げる気持になったらいい。ね。同時にまた信心をさせて頂いておる、もう本当に心外な事であってもそれが、枝も葉もない様な事であっても、ね、根拠のない事であればあるほどです、こちらはなんでもないのですから、ね、それを、とやこう言う事はいらん。神様がどう言う様な手を打って下さっておる事やら、分からんのでございますから、矢張りひれいとして、お礼を申し上げていく以外にはない。どうぞ折角私共が有り難い教えを頂いておるのでございますから。
 又助かっていっておるのでございますから、もう有難い教えを人へ伝えていく、自分が助かっておる事も有難い。人の足元を見てから、どうのこうのと言う様な事があってはならん。それがどのような風にまた次の人が誇張して言うやら分からん。すると相手の人の心を傷つける、椛目の金光様はこげな事をいわっしゃったげなと言う事になりかねない。そう言う様な事があってはならないと言う事を私は慎ませて頂かなきゃならんと同時にです、今度は反対のほうにそれが、こちらの方へ響いてまいりましてもです。
 それを響き返す事はいりません。神のひれいとしてむしろお礼を申し上げる事。成程泥棒と言われても、乞食じゃと言われても腹を立てるな、こちらが物を取る様な事をしておらなければよろしかろうが。もろうて歩かなければ乞食じゃなかろうが。人の口には戸は立てられんのだ。私ここに書いてある誰かが金光教の事を、金光教に限った事じゃないでしょう。それは創価学会に言わせれば、他の宗教は全部が邪教なんですから。ね。けれどもこれを反対に、創価学会を邪教として、その邪教であるわけをです。
 成程書いてありますけれども、私一ページ二ページ読みよりましたらね、嫌になりました。散々悪口を所謂日蓮上人様の事を、結局は悪く言わなければならない事になる。大ほら吹きのいうならいんちき坊主だと言う事になるんです。これを見よると。私共は矢張り上人様は上人様の御信心を尊しとする。ね、また創価学会の方たちの所謂一つの勢いというものは私共は習わせて頂かなきゃならんとさえ思う。相手がそれを言う事は、あちらのいわばそれが生き方なのである。創価学会の。ね。
 ならその生き方を真似すると言う事になってはお道の信心がない事になる。お道の信心はどこまでも。人の口には戸を立てられんとして、それに、ね、腹を立ててはならんというのがお道の建前、お道の信心。どうぞ一つお互いが物言えば唇寂し秋の風と言うた後にさびしい思いをするようなおしゃべりはまず、しちゃあならんです。女は口に性(さが)ないものというがです、女だけのことじゃあありません。
 男でもお道の信心をさせて頂いて、それが面白おかしゅう言うことならいざしらずだけれども、それが人の心を傷つけるような人の名誉にかかわるような、様な事また人がこういうたからというてそれに対して反論するような、事は厳しく私はお道の信心をさせて頂くものは慎まなければならんと思う。例えば椛目の御造営のああ言う様な事があっておる事でございますから、それは成程随分と風当たりもひどいでしょう。
 けれどもその風で吹き飛ばされる様な事があっちゃあならん。ね。愈々そう言う所をです自分の心の上に自分たちの信心の上にしっかり頂いて、ね、本当にそう言う様な例えば椛目のひれいを傷つけるような、事を聞いたなら、また本当にそう言う様なものが本当にこちらにありはしないかと、強く反省させて貰うと同時に、ね、顔は神様から洗うて貰う信心をさせて貰わなければいけないと思うですね。
   どうぞ。